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「読んでいない本について堂々と語る方法」、あるいは、自称「あまり本を読まない精神分析家」の読書論

2017.06.06|blog

これ程多くの書評があるとは知りませんでした。

書店の店頭で見かけてアマゾンの書評の評価をチェックしてから注文しました。うろ覚えの会計原則について質問されたときなどに、うまく切り抜けられるヒントがあるかと思って手に取って見たのですが、何と不真面目な学生だった頃に習った「ポスト構造主義」のフレーバー満載のウィットに富んだ読書論・テキスト論でした。著者はピエール・バイヤールと言うパリ第八大学の教授で精神分析家です。

アマゾンの書評は日本の単行本・文庫本合わせて39、アメリカのペーパーバックにつき65、合計104もありました(2017年6月1日現在)。面白いのは日本の場合評点4と5で全体の約95%なのに対して、アメリカでは約57%に過ぎず、特にアメリカの読者の低評価のコメントを見ると、裏読みが必要な仕掛けだらけの表現にお手上げといった感じのものが多く、日本の読者はなかなかレベルが高いと感心しました。

なお著者は、作者を前にしてその人が書いた本について語るときは、どうせ話が嚙み合わないのでともかく曖昧に褒めることを薦めています。このブログを読むことを途中でやめてしまっても、是非読んだふりをして褒めていただければ幸いです。

略号一覧

著者はまず「序」の冒頭でで、「私自身、本を読むことがそれほど好きなわけではないし、読書に没頭する時間もない。」と記したあと、この本で引用した本について自分がどの程度知っているかと、その本についての著者の評価を脚注に略号で示すと宣言します。その略号は

<未> ぜんぜん読んだことのない本、 <流> ざっと読んだ(流し読みをした)ことんがある本、<聞> 人から聞いたことがある本、<忘> 読んだことはあるが忘れてしまった本

◎ とても良いと思った、 〇 良いと思った、 ☓ ダメだと思った、 ☓☓ ぜんぜんダメだと思った

というものです。見てすぐお分かりになる様に、どの程度読んだかを示す略号に、「精読した」、「通読した」が無いのです。実はバイヤール教授はこの著書以外の作品で、アガサ・クリスティの「アクロイド殺し」や、コナン・ドイルの「バスカヴィル家の犬」のテキストを精密に読み解いて、作者達に犯人と指定された人達以外に真犯人がいることを見事に論証してみせています。最初から罠が仕掛けられているので足下に注意しながら、内容を簡単にご紹介したいと思います。

未読の諸段階

第1部では上の<未>、<流>、<聞>、<忘>のカテゴリー毎に分けて、著名な文学作品(エーコの「薔薇の名前」、モンテーニュの「エセー」等)を引用しながら、個々の書物を「読んだ」か「読んでいない」かよりも、(1)その書物がある時点での文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体の中のどの位置にあるかを把握すること、(2)個々の書物の内部で自分がどこにいるかを素早く知ること、が重要であることを主張し、さらに次のような議論を展開して「読んだ」ということの意味の不確かさを論証していくのです。

流し読みの効用

多くの人が実践している流し読みによって、ディテールに拘らずに本の内奥の本質と知性を豊かにする可能性を把握することができるし、その本について語ることもできる。そうすると本をある程度読んだ人はどのカテゴリーに入れるべきか明確ではなくなってしまいます。

「現実の」書物ではなく「遮蔽膜としての書物」

本ついて話題にするときに、われわれが語るのは「現実の」本そのものではなくて、そのときの状況とわれわれの無意識的価値が再編成した書物(「現実の」本に覆い被さる「遮蔽膜としての書物」)でしかない。精神分析の概念を応用しているので分かりにくいのですが、本について語るときは、その時に自分がその本について知っている限りのことについて語るので、語る対象は常に変化していて、「現実の」本とは必ず隔たりがあると言うわけです。

忘却の作用

本を読む一方で読んだことを忘れて行くことは避けられないプロセスであって、本について語る際は必然的に本の大まかな記憶について語ることになる。

このように考えてくると、読んでない本について何かを語るという状況におちいったとしても、心理的には随分楽になるのではないでしょうか?

どんな状況でコメントするのか

第2部では、読んだことのない本について語る状況(大勢の人の前で、教師の面前で、作家を前にして、愛する人の前で)を4つの文学作品や映画を引用しながら説明しています。

その説明の中で著者は、「内なる図書館」、「内なる書物」という概念を持ち出します。「内なる図書館」とは読者に影響を与えて、読者の内に蓄積された主観的な書物の総体、「内なる書物」とは書物を受け入れる際に読者が自分の個人的な世界観に基づいて変容させた結果の書物のこと、と理解すれば良いようです。

それぞれの人の持つ「内なる書物」が特殊で個人的なため、同じ書物について語りあっても本当のコミュニケーションは成立しないのです。従って、本について語る相手と、全く同一の「書物」について話す状況はありえないことになりそうです。

心がまえ

そして第3部では、いよいよ読んでいない本について語る方法を説明すると言い、次の様な章立てで、バルザック、夏目漱石、オスカー・ワイルド等の作品を引きながら論を進めて行きます。

1. 気後れしない、2. 自分の考えを押しつける、3. 本をでっち上げる、4. 自分自身について語る

この章のタイトルだけだと、ともかく図々しく振る舞い、不正確でも良いから自分の考えを主張し、本の話を自分自身の話にすり替える、といった戦略を提唱しているように見えますが、これも著者一流のウィットで、中身は至って真面目な議論で、論旨は次の様なものです。

- 学校の教室以外で書物について語りあう時は、どの程度まで読んだかについてはお互いに知ろうしてはならないという暗黙のルールが存在する。完全な読書というものは存在しないし、読書は真偽のロジックには従わない。自分自身にとっての真実が大事である。

- 書物は物理的には変化しなくても、その書物を取り巻くコンテクストの中では流動的であって、自分の知的・心的ポジションを変えればその書物についてどのように評価することも可能である。

- 書物についての記憶ははかないため、自分がある本を読んでいるか明確に知ることは難しいし、他人が読んでいるかどうかを知ることはほとんど不可能である。テキストの内容とは不鮮明な概念であって、で何かがそこにないとはなかなか確言できない。書物について語るときに大事なものは語り合う「読者」のあいだの関係であって、詳しすぎることを言って書物の意味を狭める事は慎み、書物の潜在的可能性を最大限尊重しなくてはならない。

- 書物を批評するときに耳を傾けるべきは自分自身にたいしてであって、「現実の」書物にではない。読んでない本について語ることはわれわれを創造的プロセスに置き、自ら創作者になる可能性を与えてくれる。

実際の読書にどう活かすか

この本はある意味で著者から読者へのエールであって、読書に関する3つの規範と著者が呼ぶもの(読書義務、通読義務、本について正確に語るためには読んでなくてはいけない、という一種の固定観念)からもっと自由になって、書物を通して自分自身を語ることを薦めているのです。もちろんこれに対して、「きちんと本を読まずに勝手な感想を述べることを推奨するとは何事か!」といった非難を浴びせることも可能です。

しかし、毎年何万冊も新刊が発行され、武蔵野市立中央図書館の蔵書は約55万冊あり、この書物の大海の中で、買った本の全てを読了することも出来ずに一種の罪悪感を抱いているような人がもしいるとすると、福音とも言える考え方ではないでしょうか。

読書の目的にも色々なものが考えられ、私のような職業の者が専門書を読む際に、基本書を隅から隅まできちんと読み、有力説も読み、タイムリーな解説書も読んだりとインプットに時間を使いすぎると、理解した内容を整理してアウトプットしたり、実務に応用したりする時間が足りなくなります。その際には要領よくポイントを押さえる流し読みが必須で、これからは後ろめたさを感じずにつまみ食い的読書ができそうです。

また、書に対する姿勢も、例えばその道の大家が書かれていることを金科玉条のごとく受け入れるのではなく、自分自身で批判的に受容するといった態度が大切かと思います。法律書を読んでいるとき、立法担当者の見解と異なる解釈を堂々と論理的に展開している論者は思わず尊敬してしまいます。また、論文のレビューアーが、権威者からの引用以外の意見にすべて懸念を表明したりするのを経験するととてもがっかりするものです。

楽しみのための読書もあって、そういう時には飛ばしたい読みしたい部分もあれば、じっくり味わいたい細部もあります。私はこの本の引用部分と著者による脚色部分を読むのが楽しくて、1度通読し、2度目は多色ペンを持って精読し、この原稿を書くために3度目は流し読みしました。

流し読みが効率的だと分かっていても、立ち止まりたければそこで立ち止まれば良いと思いますし、読んだ本は自分自身の「内なる図書館」の中に正当に位置づけてあげたいとも思いました。


2017.06.06|blog